武蔵美映像合格者再現作品解説第二弾はこの作品です。とにもかくにも、この「移動」する視点ですね。映像という媒体以外では表現しえない風景です。眼前で空間が動いている。そこに時間が流れている。それだけです。それだけなのですが、それをとらえることで、それだけで「映像」が出現するのです。映像技術、表現が生まれてから120年以上変わっていない史実です。被写体はただそこにあるだけ。それを切り取る視界が移動する。そこに生まれるリズム。連続する景色はミュージックビデオにも応用できそうな音楽性を有しています。我々の日常には、こういった連続性が実に多くあふれています。横断歩道にブロック塀、フェンスや階段、ガードレールと電柱、その電線にとまるムクドリたち...移動を手段ではなく目的ととらえることで、街には連続によって出来ているものがいくらでも存在していることに気づけます。




その連続性を最前面に押し出すような構図がとられています。この画面にはカメラマンの視線が存在しているのです。どこに座って、どちらを向いて、どのような対比と運動で空間を切り取るか。それが極めて明確なのです。描いているというよりも、撮影している意識ですね。助手席から身体をひねり、進行方向の斜め後ろに目を向ける。右手前から現れて左奥へ矢継ぎ早に消えていく鉄骨を近景として、遠方には同方向へ微速でフレームアウトしていく島を収める。物理的な動作をきっかけに、実に巧みに心情の描写へ移行させています。




そこに記された内容を一言で言えば、離郷ですね。決して独自性の強い題材ではありません。作者自身は島育ちではないのでフィクションです。前回解説した「煙突」が極めて日記的なドキュメントだったのに対して、設定された出自の少し特別な日の話です。とはいえ、派手だったり特殊な状況とはいえないこの内容のどういった点が評価につながったのか?




それは、いかにすれば「映像」として印象づけられるのか、に焦点を絞っているからに他なりません。前述の画づくりはもちろん、文章でも映像をしっかり意識しています。冒頭を少し読んだだけでもそれがわかりますね。視覚と嗅覚、聴覚が現れて、そして触覚(気温)。内面を吐露してしまえば簡単ですが、それは「映像」ではない。いつもの橋を走る車、意図を感じさせない所作から車窓へ視線を移すことで、やっと主題である郷愁が出現します。このカウントダウンという語彙が効いています。その均質な時間経過によって、作品全体のテンションを丁寧に制御しています。こういった場面にありがちな湿り気を拒否するような、実に抑制の効いた見せ方ですね。心情ありきではない、鉄骨と島の多層構造を持った映像から引き出された郷愁です。まず「映像」なのです!




この作品も、やはり日常的な観察から生まれているわけですね。文章(物語)ではなく、あくまで「映像」で課題に応えていることがわかります。最後に交わされる方言も、朴訥ながら抜け目ない演出が施された一作です。




では、次回の合格者作品にもご期待ください!